村上春樹における悪の問題

 村上春樹を読む時に一番気になるのが「悪」についての問題である。

「血は流されなくてはならない。わたしはナイフを研ぎ、犬の喉をどこか
で切らなくてはいけない。」『スプートニクの恋人』(講談社・206p)
のようにヒトが必然的に犯してしまう「悪」の問題に最近の村上春樹
肉迫しているようだ。

 これは最新作『海辺のカフカ』(新潮社)でも顕著である。「しかし
それは仕方のないことなんだ。そこには痛みがなくてはならない。それ
が決まりなんだ。」(上巻・248p)

 「悪」が世界に「なくてはならない」と強調する村上春樹にわたしは
不気味なものを感じる。無論これは「悪の奨励」ではないだろう。
「悪が世界に存在することを認めよ」と読者に問いかけているようである。

世界に顕在する「悪」とどうつきあってゆくのか、それが最近の村上春樹
のテーマであるように思われる。

初期三部作と呼ばれる三作の二作目『1972年のピンボール』(講談社
にも早くもこの問題の萌芽は現れている。

 「世の中にはそんな風な理由のない悪意が山とあるんだよ。あたしにも
理解できない、あんたにも理解できない、でもそれは確かに存在している
んだ。取り囲まれているって言ったほうがいいかもしれないね。」(92p)

村上春樹はその初期から「悪」の問題について考えてきた作家である
ようだ。今後彼がどのように独自の「悪」の問題についての解答を出す
のか期待したい。